上野行一+奥村高明

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更新日 2017-09-24 | 作成日 2008-05-26

第4回鑑賞教育フォーラム

対話による美術鑑賞と子どもの学び

 上野 行一

(高知大学)

奥村 高明

(国立教育政策研究所)

はじめに

平成18-20年度科学研究費補助金(基盤研究(B))課題番号:18330194「対話による意味生成的な美術鑑賞教育の開発」における研究は多岐にわたるが、本発表では「対話による美術鑑賞と子どもの学び」に焦点を当てている。

1.研究の経緯


鑑賞をとらえる基本的視点

・「石ころ」と「作品」、「日常」と「美術」、「感覚」と「文化」を往還する鑑賞(知に働きかける鑑賞)
・コミュニティの財産を共有する鑑賞(関係性に働きかける鑑賞)
・「教育」と「企画」、「普及」と「展示」の一体化(学校・社会に働きかける鑑賞)
・組織や団体をつなぐ結節点としての人(組織に働きかける鑑賞)
・関係性という生態的な働き
・「働き」に「働きかける」
・過大な期待という危険
・体験、表現の軽視への危惧  〈大学美術学会高知大会課題研究〉

①現行学習指導要領の位置付け「鑑賞は創造的な実践」
②「生きる力」としての鑑賞(上野2001)
③「モナリザは怒っている」における授業分析と授業改善の視点(上野・奥村2008)


・「生きる力」の育成を視野に入れた鑑賞プログラム
・自己の創造性を発揮して新しい価値や情報をつくりだし、社会に発信する能動的な学習者
 (上野2001)

対話による鑑賞
・アレナスと同一視
・文化財軽視という批判
・方法論の絶対視や混乱
・「創造的な鑑賞」と授業論
・「授業研究」文化への寄与


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・科学研究費(基盤研究B) 「対話による意味生成的な美術教育の開発」
(研究代表:上野、共同研究者:岩崎、岡崎、奥村、日野)
・長野鑑賞教育プロジェクト
・DVDブック「モナリザは怒っている」(上野・奥村2008)


2.子どもの学びの特徴

授業における子どもの学びは、集団の学びと密接に関係している。閉ざされた個としての学びではなく、他者との交流を通して相互的になされる学びである。


 ①
 ② 見たいところを見る
 ③ 意味を探る
 ④ 子どもは本質を見る

本発表では、対話による美術鑑賞の授業を通して、学級における集団としての学びの変容をとらえるとともに、相互的に交わされる発話と子どもの学びの関係について考察したことを、事例研究の形式で述べることにする。


3.小学校1年生の授業から

教材:国吉康雄《仔牛は行きたくない》1922年
日時:2007/1/27
場所:一ツ橋小学校
学年:1年1組
指導者:岡本章子+門脇裕子

1)授業の導入
 先生はまず「きょうは思ったことなんでもいいから、みんなでお話して、考えてみたりしたいと思います」と本時の目的を口頭で告げた。次に、①静かにじっくりと見る、②だまって手を挙げる、③聞こえる声で話す、④ともだちの話をしっかり聞くの四つの学習目標を掲示し、全員に読ませた。授業の最初の部分での子どもたちの意見は次のとおりである。

C1ショウ:あそこの黒いところが、焚き火をした跡と思います。
C2タイキ:子どもが壁のところにひっついてるのは犬が追いかけている(から)と思います。
C3シュウジ:ちょっと違います。犬じゃなくて、ヤギが怒っていると思います。
C4シュン:子どもの~下の~足の~ところの、下の階段のところに、白・・・白い卵、卵と思います。
C5マキ:なんかね~、寂しいと思います。
C6マキ:あの~、子どもの顔がなんか寂しそうだからです。
「黒いところ」「子ども」「犬(ヤギ)」「足元の白いところ」。授業開始の頃に出た意見はこのように、絵の部分に関するものであった。絵を全体のまとまりとしてではなく、自分が興味をもっている部分から見ていることが読み取れる。(見たいところから見る)注目すべきことは、その部分に自分なりの見解をもっていることである。「黒いところ」はただの黒いところではない。C1によればそれは「焚き火をした跡」ということになる。(意味を探る)焚き火には異論は出なかったが、次のC2のいう「犬」には「ちょっとちがう」と異議申し立てがあり、犬ではなくヤギだと説明された。
 先生は犬という意見に対しては「あ~ね~」と同意し、ヤギという意見に対しても「あ~わかりました」と同意している。別に節操がないわけではない。子どもがそのように見えたというのなら、それはそれでよいと考え、先生はあえてこの段階で決着をつけなかったのだろう。授業開始直後であり、まだ絵を見始めたに過ぎない時点であるから、いずれが正しいかを論じ合う段階ではないともいえるし、そもそも作者によればこの生き物は仔牛であって、犬でもヤギでもない。
 さらにいえば、この生き物が犬であろうとヤギであろうと、この絵の鑑賞にはさして大きな問題とはならない。ポイントは男の子と生き物との関係性にある。そのためには、(犬が)追いかけている、(ヤギが)怒っているという述語の部分にも留意しておく必要がある。
 ここでは、C2の意見に対してC3が異論を出したということも授業づくりの視点からは、重要であることを指摘しておきたい。
C6の「あの~、子どもの顔がなんか寂しそうだからです。」という部分に注目したい。これはC5の「なんかね~、寂しいと思います。」という意見を受けて、先生が「寂しいと思う。どの、どこを見てそう思う?」と意見の根拠を問いかけた結果、引き出せた意見である。
導入部分の六つの意見を見てきたが、それぞれ部分に注目した意見でありながら、自分の見解をもっていることや、先の意見に関連付けた発言、根拠を述べる発言などが先生の受容的な応答と的を射た問いただしによって生起していることが読み取れる。

2)授業の中盤
C16ケンイチ1:おれはね、絶対ね、こうやと思う。なんか散歩しよって、ヤギ畑をみっけたら、出ちょったヤギを見つけたら、ヤギに追いかけられて家に来て、あのね、開けてた…だって、ほらヤギに追いかけられて追い詰められてるみたい。
T:あ~。ヤギに追いかけられゆう。
C17ケンイチ2:追い詰められちゅう。(先生の言い換えを訂正する)
T:追い詰められちゅうみたいに見える。
C18ケンイチ3:ひも持っちゅうもん。だって~ほら~。(指差す)
C20エリカ:ケンイチくんに質問です。なんか~でもさ~、ひもみたいなん持っちゅうき、やっぱ散歩してきて帰ってきてるのかと思います。
(児童いっせいに)同じです。
T:ひも!あ、よう見えたね~エリカさん。ひも持ってるね~。うん、うん。あ~、わかりました。ね~、今みんないろんなもの見つ、見つけてくれたね~。焚き火をしてるよ~とかね。それから、お散歩に出かけて帰って来たところじゃないかな~とか、追いかけられて、ね~。
C22ケンイチ4:追い詰められている。(再び先生の言いかえを訂正する)
C24マサミ:追いかけられてるように見えてない。だって、ひもくくりつけちゅうからね…
T:ひもをつけているから~追いかけられゆうようには見えない。マサミちゃん、あ~。どうですかそれ~マサミちゃんが言ってくれたこと。 
(児童つぶやき「いいと思う」)
C25サトシ:ひもを持っているけど、ちょっとヤギにかえたら目がちょっと怖そうな目になっています。
C28シュン:反対に…ヤギが、子どもに捕まっていると思います。
T:ヤギが~子どもに捕まっている。はい。ショウさん。
C29ショウ:はい、男の子がヤギに不審者と思って(思われて)、追い詰められてると思います。
T:ヤギに追い詰められている。なるほど~。マキさんがなんか悲しそうな顔、子どもがしてるよって言うたね~、それから、あ、あ、はいはい、ケンイチさん。
C30ケンイチ5:ヤギ飼いの子が~、ヤギ散歩させて帰って来て~、入れようとしよるがヤギ、で、嫌だ嫌だ、もうちょっと行きたいよ~ってやりよる、ヤギが。
T:あっ嫌がっちゅう。ほ~。
(児童つぶやき「無理矢理入れゆうが」)

 ケンイチは、この男の子がヤギに追い詰められていると見ている。先生が「追いかけられている」と言い直すたびに、ケンイチは「追い詰められている」と訂正する(ケンイチ2、ケンイチ4)。追いかけられているという動的なイメージではなく、追い詰められているというむしろ静的でじりじりと切迫したような場面をイメージしているのだろう。ショウの発言からはそのイメージが他者にも共有されていることが読み取れる。
 男の子がひもを持っていることを言い出したのはケンイチだが、エリカやマサミはヤギがひもでつながれていることを根拠に、追い詰められているという状況に異議を申し立てる。しかしサトシの言うように「ヒモを持っているけど」ヤギの目は怖そうだ。そこで、シュンは男の子がヤギに追い詰められているのではなく、「反対にヤギが、子どもに捕まっていると思います」と述べたのだった。
 この一連の意見交換の過程からは、子どもたちが他者の意見をよく聞き、判断し、自分の意見に取り入れて思考しようとしていることが読み取れる。発話の相互作用によって思考が活性化している。このあとショウからは対話の方向性と関係のない発言もでるが、先生は授業開始の頃に出た、子どもの表情が寂しいというマキの発言を持ち出し同意しようとする。その直後、ケンイチからこれまでの意見を統合するような発言が出る。
ケンイチ5:ヤギ飼いの子が~、ヤギ散歩させて帰って来て~、入れようとしよるがヤギ、で、嫌だ嫌だ、もうちょっと行きたいよ~ってやりよる、ヤギが。
幼い言い方ではあるが、「散歩して帰ってきている」というエリカの意見を取り入れ、ヤギが「もうちょっと散歩したいよ」と嫌がっている場面だとまとめたのだった。この発言の重要な点は、先生による言いかえを二度までも訂正した自らの「追い詰められている」という見方を取り下げていることだろう。他者の意見を聞いて考えを改めたのだ。しかもサトシが指摘したヤギの怖そうな目から「嫌だ嫌だ、もうちょっと行きたいよ~」と、男の子に抵抗するかのようなヤギの心の声を感じ取っている。教師は「あっ嫌がっちゅう(嫌がっている)。ほ~」と同意し、ケンイチの意見に触発された他の子どもから「無理やり入れゆうが(無理やり入れている)」というつぶやきが発せられる。
ところで《仔牛は行きたくない》これがこの作品に付けられている画題である。作品表面の描写からその深層を見つめ、その作品を成り立たせている意味を見出しているのである。(本質を見る)

3)授業の終盤
授業はこのあと「黒いところが、焚き火をした跡」という意見に戻り、場面の情景の読み取りに移った。これは散歩から帰ったらまわりが火事になっていた場面であるということになった。
C44:後ろの家が燃えそうになっているから、急いでお母さんに知らせなきゃと思って家に入っていると思います。
C53:子どもの近くに、もう一つの下のとこに火が燃えていると思います。そこで、家の後の方の子どもが立っている家の後ろにも火が燃えて、ヤギと子どもが炎に囲まれていると思います。
C44の「急いでお母さんに知らせなきゃ」というような発言は、自分だったらこうするという視点からの発言であり、このような(自分と重ねて見る)傾向は子どもの見方の特徴である。


4.中学校の授業から

教材:菱田春草《落葉》1909年
日時:2008/11/14
場所:千歳市立北斗中学校
指導者:山崎正明

1)授業の導入:画面上の観察
授業は安藤広重の《東海道五十三次 蒲原》の鑑賞から入り、菱田春草の《落葉》は2枚目の教材である。先生が「さ、じゃあ、何が描かれているでしょう?」と問うと、生徒たちは次のように発言した。
C:木。
C:草。
C:鳥。
C:秋。
T:そうだね。秋が描かれている。
C:冬。
T:冬?冬じゃないか。
C:秋でしょう。(ざわめく)だってさ。霧。
T:霧?秋、冬、霧。
「木」「草」「鳥」と授業の導入段階では単語の羅列であった。小学校1年生の導入段階と比べても、言葉の貧困さが感じられるが、ひとつには他者を意識するようになる精神発達の時期的な特徴の現われでもあろう。加えてふだんのさまざまな教科での授業が対話をあまり要しない形式である場合、そうした経験が学級に隠れた学習規律を形成し、発言が出にくい状況を作り出していると考えられる。ともあれ、発言の質に注目してみると、やはりこれらは部分に関する発言であることがわかる。作品の全体ではなく自分が関心をもった部分について語っているのである。(見たいところを見る)

2)授業の中盤:描写や画面構成の工夫の発見、描かれたものの象徴性
教師は、「何描きたかったんでしょう。ちょっと想像してみてください。というか、どこに引かれたんでしょう」と問いかける。生徒からは、実際に見て描いたという意見と、想像して描いたという二つの対立する意見が出された。左の木が「冬なのに緑」であり、「霧がかかった中で描かないんじゃないかな」というのが根拠である。この意見交換がきかっけとなり、生徒は描写や画面構成の工夫に気付いていった。

C:なんか手前側なんかすごく細かく描いていて、説明できないんですけど、もし想像で描いたとしたらすごいなと。
C:えっと、その緑の木を最初はメインにして描こうと思って描いたと思うんですけど、そしたら右側に鳥がいてなんかバランスが悪くなって、すごい右側の下の落ち葉とか多くして、木も、木の色も濃くとかしたりして、すごいバランスがとれてると思いました。
T:ほう、バランスね。ここをね。強いとこと弱いとこと詳しく説明してくれたよね、それって絵の上でバランスとってるんじゃないか。めっちゃ面白い。どうぞ。

モチーフの配置やバランスに関する意見が出てくるのは、やはり中学3年生という段階の特徴だろう。「落葉」という特定の作品を絵づくりという一般的な視点から見ることも、絵という存在を文化的にとらえることができるようになっているからである。このあと一人の男子生徒から思いもかけない発言が出てくる。

C:えー、人の気持ちに例えるとなんか、失恋した後になんか恋が芽生えて緑色の木が生えてきたときっていう感じ。

 この生徒は「人の気持ちに例えると」と前置きし、緑の木の芽生えを新しい恋の芽生えになぞらえて作品をとらえている。失恋や恋の芽生えをこの作品に見るのは、多感な時期の生徒ならではの特徴的な見方に思える。彼らもまた彼らなりに(自分に重ねて見る)のである。
 描かれたものの象徴性を見るこのような見方はやはり中学生以降に特徴的な見方である。抽象的思考ができるような精神発達があって、比喩や象徴は十分に理解され、それを用いて思考を広げることができる。

T:これが芽生えね。失恋のあとのなんか。後ろは失恋でこれは芽生えね。希望ね。希望の木。作者は描きたかった。実は。この緑の。なるほどね。おもしろい。

教師はこのように締めくくった。

3)授業の終盤:画面全体についての象徴的解釈→主題の探究

 後景の木と前景の緑の若木についての象徴的解釈のあと、別の生徒から次のような意見が出た。

C:えっと、うしろにいくほど木が傷ついてて、前のほうが緑で、新しいし、たぶんその緑の木は大人になるような木に生長するから、まだできたばっかりで。その前がわに小鳥がいるから前に行くほど生まれたばかり。
T:どうよ。そうなってるなあ。これ細い。後ろの木は古いんじゃないか。面白い。なんて面白いんだ。

 ここで現れた意見は、画面全体についての象徴的解釈である。画面構成は時間の表現であり、誕生から老いまでの生命そのものの表現であるというわけだ。平面の空間に時間の流れを象徴として見る見方は、生徒たちに共感を与える。この意見のあと、さらに別の生徒がこう述べた。

C:えっと、この緑の木はこれは夏を表わしていて、この全体は夏が終わった後の秋とかそんな感じで、鳥は夏を恋しく思っているから、またそのなんていうんですか、来年の夏を待ち遠しい。

時間の表現という先の意見をさらに展開するかのように、この生徒は季節の移り変わりを重ね合わせてこの作品を読み取っている。画面全体は秋であるが、手前の緑の木は夏を表わし、夏を恋しく思う鳥とあいまってこの作品から夏への憧憬を感じ取っている。
こうしたことが作者である菱田春草の意図かどうかは別にして、作品表面の描写からその深層を見つめ、その作品を成り立たせている意味を見出したり、付加したりすることが鑑賞における(本質を見る)ことである。もしも春草の意図を知る機会があれば、それはそれでさらに作品の見方を深めることに役立つだろう。作者の意図を知ることによって授業中の生徒の鑑賞が覆されるわけではない。
見ることは知ることであり、知ることは見ることを助けるのである。