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更新日 2017-09-24 | 作成日 2008-05-26

第3回 美術鑑賞教育フォーラム

アート起こしの美術教育
~高校生をファシリテーターに~

―創造のための批評力とコミュニケーションの力を育てる対話型 鑑賞ワークショップの取り組みを通してー

 
浅野 吉英

兵庫県立西宮今津高等学校 教諭

<西宮今津高校の地域特色>

 私は、教師をはじめて23年目になる。養護学校に9年、普通科高校に14年。昨年の春より、兵庫県立西宮今津高校で教えている。西宮今津高校は、平成19年4月より、総合学科に移行し、1期生が入学しもうすぐ1年になろうとしている。それまでは、総合選抜制(入試により西宮市内の高校に希望枠、居住枠で振り分ける選抜制度)で地域密着の普通科7クラス規模の普通科高校(2、3年生各7クラス)だった。全県募集できる総合学科高校は、制服やカリキュラムも変わり、2年次から選択できる専門科目が大幅に増え、生徒の居住地域はこれまでの西宮市内から、尼崎、伊丹、宝塚へと広がり、進路意識の強い生徒が増えてきた。学校全体のムードも大きく変わろうとしている。
 本校の北東900mには甲子園球場があり、夏場の夕方には球場のどよめきが風に乗って聞こえる。また、江戸時代からの酒造りの歴史を感じさせる今津灯台が西300mにあり、周囲には白鷹や白雪などの大手酒造会社、スーパーや電気、日曜大工などの大量物販店、ファミリーレストランなどが点在する住宅地になっている。

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南東には阪神間で唯一残っている1.5kmの甲子園浜の砂浜がある。砂浜を残そうと立ち上がった小学校のPTAを中心とする市民活動が阪神高速湾岸線のルートの計画変更を実現させた歴史を持つ市民意識の強い土地柄である。西宮市内には、図書館を併設した市民ギャラリーが西に1.5kmの夙川の東に、今回連携した西宮大谷記念美術館が学校から西に2kmの夙川の西にある。西宮には、具体美術で活躍した美術家たちが積み上げてきた明るく陽気なアートの流れもあり、また、毎年10月には市役所前でアートバザールを開催するアートNPOなどの活動もみられる。市役所には「音楽のまち西宮」という垂れ幕が掲げられている。
 
 
 

<西宮今津高校の現状>

 総合学科1期生を平成19年4月に迎えた。私が転勤した時がその変わり目だった。本校には、これまでの10年間、専任の美術教諭が置かれていなかった。時間講師2名で16時間を担当していた。内訳は、1年次に必習の美術1、2年次選択の美術2、ビジュアルデザイン、3年次選択の美術3、クラフト2講座である。3年次8単位の美術系の選択科目があるのは、四大進学系でない座学で持たない生徒向け授業として設定された色合いが濃く、3年次に美術系を選択した生徒で専門学校を含めて美術系に進学したのは、本年度15%弱だった。

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10年間美術の専任が不在の美術教室は、破れたカーテン、備品の補充はされず、他の特別教室には設置されている映像機器・パソコン・LANはなく、10年前までに集められた使い物にならない工具、道具の類と10年分の生徒への未返却作品が準備室に、ところ狭しと積まれている状態であった。絵具などの画材も1年次に購入させているが、1年間で半数近い生徒が紛失してしまっている。2、3年生に新規で絵具を買わせることは出来ない状態にあり、何を使って授業を進めてゆけばいいか4月当初、私の頭を悩ませた。鉛筆と紙だけで4月を乗り切り、その間に、準備室を整理して、使える絵具を2,3年の授業に提供するようにして1学期を乗り切ってゆく。
 

<兵庫県の現状>

現在兵庫県の公立高等学校で美術の専任教諭を置いている高等学校の割合が4割を切るところまで下がり、歯止めがかからない状態にある。全県的に就学人口がこの10年減少傾向にあり、各学校の教員定数の過員解消のため芸術系教員が切られてゆく。美術の先生が定年退職したり、教育委員会に入ったり、管理職になっても新規採用に結びつかない。兵庫県の教員採用試験では6年間高等学校美術の採用がない。平成19年度の教員採用の募集要項には「平成20年度以降複数免許(芸術+芸術以外の他教科)を持たない芸術科教員の採用はない。」とまで明言されるに及んでいる。このまま専任美術教諭の充足率が下がれば、美術科の教科としての存在意義は下がり、美術教室は荒れ、学校運営の中で文化・芸術を重んじる意識は弱まり、放課後の美術部は漫画クラブになり、高校生の美術展の運営は困難になるだろう。少数の意識の高い非常勤講師もいるが、本採用を目指しているからこそ教材研究するのであって、兵庫県の非常勤講師のほとんどが複数免許を持っていない現状では、意識の高い若手の非常勤講師は、他府県へと流失し(現に大阪に流出している)、残った非常勤講師は、アルバイト感覚になる危険性がある。非常勤講師は、教育委員会からの学習指導要領についての研修を受ける機会もなく、研究会にも出張として参加できない。その地域・学校の生徒の理解には時間がかかる。美術の基礎基本から教えてゆく意識は、長期展望があってこそ指導者側に生まれるものである。非常勤講師の場合、単年度契約が基本のため、短い時間で教室の生徒に満足感を与える必要もあり、もの作り的な教材キット的内容で年間指導計画を立てているケースが多い。経験のある美術担当者と相談する機会のないままに、美術室の整理や、次年度の担当者と引継ぎをする機会も与えられないままに各学校を単年度で移ってゆく。その結果、生徒が本来学ぶべき「美術1」の内容が大きく変わって、学習指導要領から離れた内容になる可能性もある。内容については他教科の教務部長にはわからない。その結果、生徒に不利益が生まれる。この現状をわかって美術の専任教諭を新規採用しないのは、教育政策上の問題だ。
専任教諭の充足率を上げてゆくよう政策変更してゆく要望や、新規芸術科採用における複数免許の条件化への見直しを求める声は、毎年兵庫県高等学校教育研究会美術・工芸部会から、音楽、書道部会を合わせた芸術3科の会長連名で県教育委員会に提出しているが現在のところ改善は見られない。兵庫県の高等学校での美術のありようは、悪くなる一方である。特に、進学校での専任美術教諭の空洞化は完全に進み、中小規模校での芸術開講時間を芸術Ⅰの2単位のみとすることで非常勤講師への切り替えが進んでいる。
そのような状況下で、専任美術教諭の研究組織である兵庫県高等学校教育研究会美術・工芸部会は、2009年に全国高等学校美術、工芸教育研究兵庫大会を姫路で開催し、「美術の力」をテーマに美術教育の大切さを兵庫県内、全国に向けて伝えようとしている。全国大会を兵庫で開催できるのもこれが最後になるかも知れない、というのが本音で、兵庫県の高等学校の美術教員に余力がある訳ではない。この取り組みを通して、高校美術に降りかかる逆風の中にあっても、実践の中で養われてゆく生徒にとっての「力」や指導者にとっての「力」を意識化してゆくことで、広く「美術の力」を共有できればと考えている。青年期のこどもたちの成長にとって美術が大切な要素を担っているという実証研究に近づけたいと考えている。
 

<兵庫県高等学校教育研究会美術・工芸部会とは>

 昭和23年の全造連大会の高校分科会より始まり、高校の美術、工芸や教育課程の研究、教育条件の改善などを目的とする全国組織化への要望が高まり昭和38年に全国高等学校美術工芸教育研究会として発足。東京で第1回大会を皮切りに全国の都道府県を大会開催地として毎年1回の全国大会を開催している。この全国の動きに呼応して兵庫県でも美術工芸研究部会が組織化された。兵庫県は第7回大会、第28回大会を開催した。最近の大会は、44回2007年滋賀大会、45回2008年岩手大会、46回2009年兵庫大会と続く。高等学校の美術工芸部会は、組織的に整備されていない県もあると聞くが全国の都道府県に事務局を置き、学校長を会長に置くようにして教育委員会とつながる形を取っている。私は、兵庫大会に向けた準備委員会の研究部長をしており、現在企画の真只中にある。平成18年度資料によれば、兵庫県内には、全日制の公立・私学高校、特別支援学校の高等部、定時制、通信の高等学校が合わせて273校があり美術担当教諭のいる学校が124校(他に常勤6校)約44%の学校に専任の担当者がいる計算である。けれど、公立の全日制高校159校中美術担当教諭のいる学校は63校で40%を切っている。特別支援学校は41校中31校に美術担当教諭がいて75%。私学の全日制47校中29校61%に専任がいる。県内の美術担当教諭は124校の中に165名いるが、私学の先生は出張が認められないケースが多く研究会への参加者は少ない。また、特別支援学校には多数の美術教諭がいるが、研究会活動の多くが全日制の内容であるため参加しないケースが多い。美術・工芸研究部会会員は単年度ごとに任意に加入するため、ここ数年は70~80名で推移している。内部に研究会組織と高文連関係の展覧会や研修会の実行組織も含まれている。
 

<西宮今津の総合学科で考えた美術系のカリキュラム>

(下線は総合学科移行前より開講科目)
1年次 美術1(2単位/必修)
2年次 美術2(2単位)
ビジュアルデザインα(2単位) 
素描(2単位/2、3年共通) 
絵画(2単位/2、3年共通)
3年次 
今津プロデュース(2単位/学校設定科目) 
ビジュアルデザインβ(2単位) 
クラフトデザイン(2単位)
 本校の特色ある事情として、情報教育先進校で、テレビ会議などをいち早く取り入れたりしている。総合学科移行前より美術系を取り入れた情報教育が行われている。総合学科の教育課程には1年次に「情報C」、2年次に2、3年共通受講可能科目として「情報と表現」「情報コミュニケーション(WEBデザイン)」「情報メディアデザイン(映像制作)」、3年次に「コンピュータデザイン(画像・編集)」が設置されていて、映像メディア系の授業を新たに設置する必要がなかった。
 そのこともあって、本校の美術系の開講科目は、下にある専門科目を入れた基本的な構成にした。
ビジュアルデザインα/β(2単位)   デザイン、平面構成、色彩表現
素描(2単位/2、3年共通)       鉛筆・木炭を使ったデッサン
絵画(2単位/2、3年共通)       水彩、油彩による絵画表現
クラフトデザイン(2単位)      紙、木材、土などの多様な素材を使った意匠・工芸、構成
今津プロデュース(2単位/学校設定科目)  地域のまち作りの活動の中に加わり美術による関わりを持てる領域を開発し美術による提案やアート起こしを計画、実践する。
 

<美術系の授業の位置づけ>

美術Ⅰ・Ⅱでは、絵画・立体・デザイン・映像メディアの各領域を広く取り扱って、生徒が最も興味を持てる領域に自覚的になれるように、また、美術史や伝統文化、現代の美術についての幅広い紹介を心がけ、キーワードになる知識については習得するように小テストも実施する。
専門分野については、まだ「ビジュアルデザイン」を先行実施している段階で、全面展開になったときの授業運営上の講師や場所の問題はあるが、それぞれの専門科目の中で、基礎的知識の習得、素材体験、ものづくり(制作)、鑑賞・批評・考察のサイクル、アートで社会にかかわる流れを組み込みたいと考えている。
その最も大きな目玉と考えているのが、学校設定科目「今津プロデュース」という科目で、これまで学び積み上げられた生徒の「アートの力」を学校周辺の「まち」の中で、地域や行政、社会機関との協力関係の中、アートで関われる企画を考察、提案し、「アートを起こす」試みを授業として実施してみよう、とするものだ。これは、アートマネージメントの要素を取り入れた学びでもある。学校の中でどのようにすれば仲間に美術を受け入れてもらえるか、という足元から考えてゆき、どのようにすれば、「アート」が社会に受容され、定着してゆくのかと問題を発展させてゆく。これは、非常に難しい課題であるが、誰もが等身大の個人の力で関わることのできるテーマである。個々に探求してゆくしかない、しかも、社会と関わることでしか見えてこないテーマである。そこでの手応えや、未解決な問題意識を持つことで、目指す夢が美術家でも、工芸家でも、デザイナーでも、学芸員でも、行政や企業の文化担当でも、教員でも、次の進路先でこの問題にじっくり関わり、生かすことができるだろう、と考えている。
また、全授業を通して、何が問題となるのか、言葉にして考える態度を求めてゆく。問題がはっきりすると解決策となるアイデアを展開することができる。問題を焦点化したり、アイデアを広げる活動の中では、対話と一部ワークショップ形式を取り入れ、生徒間の意見交換の中で、問題意識を深め、アイデアの効果について検討できるようにしたい。教室の生徒たちは周囲の生徒に遠慮して、ほとんど自分が感じたこと、考えなど自由に発言する安心できる雰囲気が不十分である。高校生の文化は大きく変化した。「目の前にあるもの」や「目の前で起こった出来事」「新しい流行」や「新しい文化」を目にして、何人かが自然に集まって、気軽に話し合うような高校文化は消滅してしまった。そんな芸術談義をコーディネートしてゆける生徒をこれからは、育ててゆかなければならない。シャケの幼魚を川に放流するように、対話のコーディネーターを学校に放流するイメージで、コーディネーターを養成する企画を課外活動として実施する。そこで、近隣の美術館と連携して「高校生が進行する対話型鑑賞ワークショップ」をする、という企画を考えた。本年度は、高知大学の上野行一教授を西宮大谷美術館に招き、2008年1月26日(土)に本校生8名、近隣の中学や高校にも呼びかけて、計9名を進行役にして実施した。「高校生を進行役とした対話型鑑賞ワークショップ」については、あとで詳しく述べたい。年に一度は、公開性のあるオープンな企画を取り入れ、美術科の活動を目に見える形にして、職員や本校生の美術への関心を深めて、同時に授業の中だけでは身につけることの難しい、鑑賞・批評・運営の力をつけてゆくことをねらっている。
 また、地域にアートを発信するキーステーションとしての働きを学校に持たせ、周辺中学に認知してもらうことで美術に関心を持った生徒が集まる流れも作りたい。

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<生徒にとって高校の3年間の意味とは>

 高等学校は、子どもとして入学した生徒が大人として卒業する3年間だと実感している。大人並みの身長で入学した生徒が、子ども時代の甘えや他者に依存したりする精神状態から少しずつ自立させてゆく。少しずつ客観的に自分や周囲を見ることができるようになる。多少不完全な要素を持ちながらも、自己決定した事へ自己責任の負える大人へと変化してゆく。そのありさまは、種類の異なる種子がそれぞれのタイミングで発芽してゆくイメージだ。この時期に起こる非常に重要な出来事として将来を決定付けるような「発芽」が起こる。ふとした体験から何かをつかんでそこから始めたことが一生続いてゆくような「発芽」。自分が何の原石であるのかに出会う体験というのだろうか。それが部活であっても、研究的なことであっても、おたく的なことであっても、将来の職業につながることでもいい。いったん「発芽」すると成長は、一気に加速される。このような、ダイナミックな変化に立ち会うことが出来て自分は幸せだと思っている。
振り返ると、自分もそうだった。私は、大阪生まれで高校時代に美術部に入って、ベニヤ板1枚半のサイズのパネルに油絵を描くことの面白さを知った。天王寺公園にある大阪市立美術館で毎年夏に開かれる高校美術展。壁には三段重ねで作品が展示してある。同じ区画内に展示している他校の美術部員たちと作品をめぐって激しく批評しあったりする合評会があった。こういうバトルで、ぼくたちは一気に大人びた小生意気な高校生になっていった記憶がある。単に、謙虚さに欠き、頭でっかちだっただけかもしれない。それがいいのか悪いのか何とも言えない。高校時代に限るわけではないけれど、どんなタイプの人間にも上には上がいる。当時、アートに関わる意識のもっと進んだ先輩が1年上にいた。彼は「絵を描くだけやったらアートとは違う。打って出ないとだめだ。」などと言って、自作の劇をやろうと下級生の部員を誘った。「いや」と言えなかった数人は劇をやることになった。寺山修司や唐十郎ばりのストーリー展開や井上靖や大江健三郎の小説からの引用を散りばめたアングラ風の劇を文化祭の2日間、美術室で上演した。校内的には「美術部には変わったやつらがいる」といううわさでこの時期に限り有名になってしまった。変人と周囲から呼ばれることに喜びを感じられた時代だった。盛り上がった我々は、さらに別の劇を学校の近くにあった神社の境内で天幕を張って上演するプランに燃えて、できそこないの赤テントのようなことをした。この校外での上演には、近隣の反応もほとんどなかったが、何かを表現することで自分や周囲の状況が変わるかもしれない。そんな予感を幸か不幸か高校時代に持つ手応えになった。そのようなあまり一般的でないかもしれない自分の高校時代の遠い昔の記憶と今教師をして向きあっている高校生とをかぶらせて、教師としての自分自身があの高校生を前にして、美術をどのような姿勢で教えてゆくことが有効か考えた。様々なことをきっかけに数年前から意識的に実践しようとしているのが「アート起こしの美術教育」というあり方だ。
 

<アート起こしの美術教育とは>

美術の先生がアートとどのように向き合っているかという点は、授業を受けている生徒には明解に伝わってしまう。どのように向き合っているかが美術担当者の発する言葉のリアリティになるという厳しい現実に我々教員はもう少し自覚的であるべきだ。教える対象との主体的な関わりが問われる領域を美術の教師は担っている。
8年ほど前に、美術Ⅱの授業でこんなことがあった。テレビで特集されていた現代アートの作品とアーチストの活動をビデオで見せて感想を聞くと、ある生徒は「今見たアートは、すごい。でも、それを私たちに見せている先生はしょぼい。授業でやっていることはおもしろくない。」と言う。ショックだったが、教師としての自分のありようを考えざるを得なかった。結論は、授業は生きたアートのようにおもしろくなくてもいいと考えた。ある定まった価値を教えるという行為は、アートの創造からすれば二流の営みなのだと考えればいい。定まった価値を教えることなく、定まらない価値への着地の意味はわからない。これは、立ち位置の違いで、生徒からすれば、美術という名前のついている科目への期待感というものがあって、そこで感動したいという思いを持っていて、先生に期待しているということは受け止めないといけない。
同じ時期にこんな生徒がいた。入学してまだ2週間も経っていない時期に「学校を辞めたい。」と言う。理由を聞くと「アートが学びたい。」という。自分が美術を教えてることを言うと、その生徒は「そういうのじゃなくて、本当のアートを学びたいんです。」と言った。この新入生の生徒にとってこれまで学んできた美術は、本当のアートと何の関係もない、ということだ。
授業がだんだんと生徒にとっても教える側にとっても苦痛になってゆくのは、いつかアートを手に入れる日がやってくるのまで修行し続ける、という苦行を続けているからか、あまりアートにつながらない内容であるからだ。そんな声を受け止めて、教師は造形に関わるものとして二流でいいから二流なりに教室でアートを起こす意欲を持つ必要性を感じた。教室でアートを起こすことは、非常に簡単なことだ。自分の実力で起こそうともがけばいいのだ。自分の美術の力をそのままぶつけて生徒に見せてしまうことでいい。人物クロッキーなら黒板に全力でチョークで絵を描くことでいい。自らが創ろうという姿勢で美術に関わる教師を目の当たりにすることから美術の入り口が開く。、芸術家の熱い作品、勇気を与えてくれる言葉、などを教師が語る中にもリアリティが生まれて、生徒もアートの領域を少しずつ知り、自分も一歩踏み出してみる勇気を得ることになる。もがくことがないままに「教科書を見て」と言うとやはり絵空事になってしまう。これは、芸術家先生になれ、ということではない。うまさを示すことが重要なのではなく、今やろうとしていることの意味や意義が教師にとっても生徒にとっても共にあることを対話しながら示すことにほかならない。
高校時代の3年間にはすさまじいエネルギーを秘めた可能性がある。けれども、高校生の自力にまかせて好き勝手させて、可能性がひらかれるわけではない。学校という小社会から高校生が受け取るエッセンス。友人からもたらされるもの。学校の中の濃い大人。変わった先輩。世の中で活躍する有名人の発する言葉・メッセージ。社会を認識する瞬間。家族との生活から生まれる思い、などなど。何かがきっかけとなってその可能性に火がついてゆく。これは個別な形で起こる出来事である。この偶然の出来事を引き寄せるための学校が出来る条件整備が「アート起こしの美術教育」と言える。
アートが起こることを考えて、どこで、誰に向かって、何を起こすか企画する。他者を巻き込むのでこのことは、徹底的に考えぬかれないといけない。受け身で学ぶのではなく、一歩踏み出して起こすことで学ぶ。たとえ考えぬいても実際には思うような結果は得られないかもしれない。アートの起こりの難しさを実感する事になるかもしれない。けれどこの過程は高校生にとって美術を身近にあるものとして内面化できる出来事として記憶され、次の機会にアートへの関わりが起こり、美術を愛好する態度を養うこと以上の意味がある。そう考えるきっかけは、この後紹介するアサヒビールの加藤種男さんの話からだった。
この「アート起こしの美術教育」を授業として実践するのが学校設定科目として平成21年度開講予定にしている「今津プロデュース」である。今回実践した高校生がファシリテーションする対話型鑑賞ワークショップは、後述するが基本になる力だと考えている。 

<アメリア・アレナスを知る>

2000年(平成12年)12月に兵庫県高等学校教育研究会美術工芸部会の後期研究会で「表現と自己治癒」をテーマにアサヒビールで企業メセナや社会貢献を手がける加藤種男氏、甲南大学で臨床心理を教える羽下大信氏を招いて兵庫近代美術館で「表現と自己治癒×教育~美術教育は何を発想できるか~」というテーマでパネルディスカッションした。神戸連続児童殺傷事件が1997年に神戸で起こり、翌年にはキャンパスカウンセラーが各学校に置かれるようになり、思春期の子どもたちの心の闇が問題になっていた。当時私が勤務していた東灘高校に羽下大信氏をキャンパスカウンセラーにお願いしたのがきっかけで、私は10年間、東灘高校の心の教育相談も担当することになった。奈良のたんぽぽの家が、京都造形芸術大学の小林昌廣氏を講師として「芸術とヘルスケア」などの研究会を立ち上げていた頃で、心の教育と美術の授業との関係についてカウンセラーの立場とアートの現場の立場から語ってもらおうと考えたのが当初のねらいだった。
けれど当日のパネルディスカッションは、別の話題へと突き進んだ。加藤さんの企業メセナの立場からの話が刺激的で集まった60名の美術教員は釘付けになった。
加藤さんはこのように語った。(一部抜粋)
「まず、企業の中では、ものを作る人間が偉く、(メセナ活動のような)金を使うだけの人は誰からも尊敬もされず、出世もしない。企業の中では、この部署は常に風前のともしび状態にある。これは、美術の先生の置かれている状況と似ているかもしれない。だから、会社の中では、この活動は非常に大切なもので、これがなくなると会社は成り立たなくなりますよ、と脅し続けなければならない。そのためにも、自分と同じ考えを持ってくれる仲間を増やすためにギャラリ-ツアーを毎月企画した。モネなどの印象派の展覧会は、サラリーマンでも放っておいても行くので企画しない。主に行くのは現代アートの展覧会にした。あるギャラリーツアーでドイツの現代美術の企画があって、観賞後、その美術館の学芸員に解説をしてもらった。学芸員は、「みなさんボイスの事は知っていますか?」と質問した。知らないわけではないけれど黙っていると「ボイスも知らないならたいへんだ。どうやって説明していいかわからない。」と言って、しぶしぶ解説を始めた。そのツアーの終了後参加者の打ち上げで「ボイスを知らないから説明ができない、とする学芸員の姿勢は最悪だ。」という話に盛り上がって、これを悪い教師の見本にした。その頃、福のり子さんの紹介でアメリア・アレナスにアサヒビール本社に来てもらって会社の中に展示されているゴッホの作品などを使ってギャラリー・トークをした。もちろん社長が必ず参加できる日程で行う。社長が来ると重役も必ず参加してくれる。これは、自分にとっても目から鱗の出来事だった。その方法というのは、作品の説明を何もしない。作品の前で、見ている人が作品の中に何が見えるかを見えている状態でいろいろ意見を出し合い、そして何でそう見えるかなどアメリアが質問してゆくというもの。素人の目は恐ろしい。われわれは、いかに「ものそのもの」を見ていないかということがトークでわかる。キャプションや作家の名前にだまされて、きっとこういうものが描かれてあるにちがいないと思ってしまう。この経験から、その後のギャラリーツアーでは、作品の解説をするのはやめて、まず作品を見たうえで意見を出し合ってディスカッションするアメリア方式に改めた。」という。興味深い話はその後も続くがここでは省略させてもらう。
この話を聞いて、私はアメリア・アレナス関係の本を集めた。兵庫県の美術・工芸部会の先生達にも「対話によって鑑賞を進めるアメリア方式」への関心が生まれた。
 

<兵庫県で対話型鑑賞を取り入れてみる>

 前述のように、兵庫県では、芸術科を担当する教員の新採用が年々減少し歯止めがかからない。新学習指導要領が本格実施されようとして必履修単位数が3単位から2単位になったことで高等学校の美術Ⅱを履修しないカリキュラムを採用する学校が増加した結果、芸術担当教諭の持ち時間が著しく減少したのと、少子化の影響で就学人口の長期的な減少期に入り、各高校が教員の過員解消のため芸術科の教員を対象に選ぶケースが増えてきたためだ。この状況を改善するために県内の音楽部会、書道部会、美術・工芸部会の芸術三科が協力体制を組んで県教育委員会に毎年申し入れ書を提出するとともに、2年に一度芸術三科合同の研究大会を開催することで歯止めをかけようとした。平成14年度が美術・工芸部会が担当する年度に当たっていた。平成14年4月というと、ちょうど安藤忠雄の設計で話題になっていた兵庫県立美術館がHAT神戸に開館するタイミングだった。そこで、その直後の平成14年(2002年)5月に芸術三科の研究大会を県立美術館で行うことが話題性もあっていいと考えた。美術教諭から教育委員会に入り、美術館の開設準備室で教育普及事業を担当した指導主事がいたのも幸いして4月の開館前に美術館の見学会も行っていた。
 三科合同研究会の内容は、アサヒビールの加藤氏の話の中にあったアメリア・アレナスの対話型のギャラリー・トークにした。いくつかのグループに分かれて、美術教員が進行役をしてギャラリー・トークをする計画である。アメリア・アレナスの本やビデオを参考にして取り組もうとしたが、何の準備もなく出来ないので、研修的な内容を盛り込んで実施することにした。そのころ、淡交社より『まなざしの共有』が出版されて、その監修をされていた高知大学の上野行一先生に研究大会の講演をお願いし、同時にギャラリー・トークの進め方についてもアドバイスをもらい実施する運びとなった。当日は、県立美術館の常設展の会場を使い、12名の教員がファシリテーターとなって、20名弱の音・美・書の先生たちのグループを作り、ギャラリー・トーク(対話型の鑑賞ワークショップ)をした。私にとってもギャラリー・トークをするのは初めての経験だった。県立美術館のエントランスホールに置いてある最も目を引くガボの『顔の構成』という作品を見て、参加者にいろいろと意見を言ってもらう。参加者は、進行役の緊張感をよそに結構好き勝手なことを言って、楽しんでいた。美術の先生は、みな少し硬くなっていた。技術論とか美術史的な解説口調が話す中に顔を出す。進行役にとっても、参加者にとっても見た作品そのものについて語ることって、意外と難しいことだ。加藤氏が話したように、作品そのものを見ないで語る傾向にあるからだと思う。作品を見たその場でしか言えないし、ひらめきが必要だし、正しく描写しないといけないし、準備なしのライブみたいなもので緊張感がある。また、同じ作品を同じメンバーでギャラリー・トークしても出てくる意見はその時々で違うものになる。美術作品から見えてくるものは、簡単に美術史や思想史を語るための文脈に収まるようなものではなく、もっと個人的な経験として五感を刺激する揺れ幅の大きいもので、一人で見るより何人かで意見を交わしたほうが強い印象として残ってゆくことを発見する。これが、兵庫県の高等学校の先生にとってのギャラリー・トーク元年となる。
余談だが、このとき私は、学校の校務分掌で総務部長をしていて、全校集会や始業式などの司会をしていたのだが、全校生を前にして何かを語る時は、前もって何か言うことを全て考えてではなく、語る要素だけを準備して、全校生を前にした瞬間に出てきた言葉を話そうと考えるようになった。言葉が力を持つのは、なにものかを前にしたときに自然に起こって出る言葉だと実感する。
 

<授業等で対話型鑑賞実践してみる>

 芸術三科200名強の教員がこの研究会を経験し、12名の美術担当教員がファシリテーターを勤めたにもかかわらず、研究会後に対話型の鑑賞を授業の中で取り入れているという話は、ほとんどなかった。時は、総合学習元年。生徒の自己探求型の学びをガイドするのにうまく関連づけても良さそうなものだった。
 これには、いくつかの理由があった。自分も授業の中で、『まなざしの共有/録ティーチャーズキット』のCDRの作品画像を使って何度か授業に取り入れてみた。クラスの生徒の顔が隣同士、ある程度見えるぐらいの明るさにして30人の生徒を半円状に座らせて、ゴッホの靴の作品を使ってギャラリートークをした。おもしろいことを発表する生徒もいたが、自分の話していることをみんなが聞いてくれている、という雰囲気を作るのに苦労した。少し荒れた学校だったこと。指導力がなかったこともある。話を聞かない原因をたどると生徒のグループ間の仲が思いのほか悪かったことがあげられる。クラスの中で、個々の生徒がかなりの緊張感で自分を出すまい、と沈黙モードだった。裏返すと雑談モードである。自分の力量では20人を超える生徒を楽しませながら意見を話させることは難しいと思うようになった。また、プロジェクター画像からは抜け落ちてしまう微妙な色合いや質感、作品のスケール感も伝えられず、マイナスに働いた。また、このギャラリー・トークが何に関連して役に立つのかを実感させる着地点が美術Ⅰや美術Ⅱの授業で扱う教材にうまく設定できなかったことも反省点だった。

<高校の授業の中で対話型の鑑賞がうまく定着しなかった理由>

① 指導者のファシリテーターとしての力量不足
② クラスの人間関係に緊張感があり思うように話せない。グループ内の仲間の意見しか聞かないで雑談するので、話す方も嫌になる。
③ 対話による鑑賞を進める意味を生徒が受け止める必要がある。
④ プロジェクターでは、画質が荒く微妙な質感が出ない。本物を前にしたときに起こるような出会いの感動が弱い。
 授業の中でギャラリートークをしなくなって、対話型の鑑賞をやめてしまったかというとそうではない。毎年秋に行われるオープンハイスクールでの体験授業の時に中学生相手にギャラリー・トークをした。時間が30分程度で実技的なことをやるには制約があった。1セッション20分のギャラリー・トーク向きの時間だ。それから、初対面で顔を合わせたメンバーの方がかえって人間関係に縛られずに自由に話せるように思ったからだ。中学校から進路説明会に呼ばれて出前授業をしてほしい、と言われたときもギャラリー・トーク+小論・コミュニケーション指導とかを工夫してファシリテーターの経験量を増やした。臨機応変に対応して、楽しく話を進めてゆく力量を身につけることは、「アート起こし」の考え方からも重要な素養になる。そこで、ギャラリー・トークとは別に、ワークショップを教育の中に取り入れる方法を考察し、ファシリテーターとしての資質を伸ばす必要を感じた。
 

<ワークショップとは>

 現在様々な形で行われているワークショップを一言で説明することは難しい。万華鏡の組み立てなどをワークショップとしている例もある。また、アーチストが展覧会の期間中に実施したりするワークショップの中には、その作家の作品づくりのための作業ではあるけれど、参加して指示されたようにつくるだけで、相互作用のないものも多い。前述のアサヒビールの加藤種男氏がアメリア・アレナスの話の後に、このように話した。「美術の中には絵を描かせたり陶芸をしたり、デッサンの練習をしたりする授業があるが、いい絵の描きようがあらかじめ定まっていて、その目標やスキルアップのプロセスがはっきりしているような着地点の定まったものが多い。けれど、着地点の定まったものは芸術ではない。着地が決まっていないから芸術なんじゃないか。ワークショップ型の企画では、着地点を定めず、素人が集まって参加して直接的な創造体験をするようなソフトは少ないけれど、アーチストに知恵を絞ってもらってやっている。例えば、野点をしているアーチストと絵付けをしたり、焼き鏝をみんなで作って、後でお菓子に焼き鏝を押して食べたりといったもの。他の例で言うと、作曲家の野村誠は、図工の先生に呼ばれて子どもたちが教室で出す音を使いその場で作曲をしたりして、子どもの出す音を自らの芸術の中に取り込んでしまう。こどもたちは、その現場に立会い創造体験をする。そのようなアーチストは、まだその数が少なく、アートNPOの活動により今後ますます台頭してくることを期待したい。」
 つまり、これまでは完成された芸術家の技術的にも精神的にも高みにある作品を観客として受容してきた多数の市民は、本物の創造体験を求めている。こういう社会的ニーズが起こっている。という内容であった。この状況は現在も続いている。
 ワークショップを「参加・体験・相互作用を重視した学びや創造の場」と、中野民夫氏の『ファシリテーション革命』(注1)の冒頭で書かれているように、コミュニケーションを重視する現代のアーチストの活動はすでにワークショップでありアーチストはファシリテーターとしての役割を持って制作している。
 もう一つ、ワークショップを経験して自分自身が気づいた経験がある。それは、前述の甲南大学の羽下大信氏にお願いして職員研修として行った「ゴミアートワークショップ」のことだ。これは、30分の時間内で、外から自分が気に入ったゴミを集めてきてどんな形でもいいから展示する。ゴミアートの作者が順番に自分の作品の解説をする。作品に対して参加者は感想を言う流れだった。同じ学校で仕事をする他教科の先生が面白がっていろんなものを集めてきて会議室がゴミ山になったのも楽しかったが、何よりも美術を教えている学校内での自分の立場があったので少しカッコをつけて現代アート風に仕上げてしまった。このカッコをつけている部分が自分の中では「けむにまいて恥ずかしい。」という思いになって、自分の作品を語るときに少ししどろもどろになってしった。けれど、周囲の感想はやんわりしたものだった。内心ほっとした。ほっとしたと同時にその場に参加した同僚たちは、みんな親睦会に参加したみたいに仲良くなった。このことを羽下氏に話すと「自分ではヤバイと思っているものでも他人はそんなにヤバイと感じてないものですよ。」と答える。自分の中のモヤっとしたものが、他者に許容されると他者への信頼感みたいな感情の湧いてくる不思議がワークショップにはある。
 (注1:『ファシリテーション革命』中野民夫著/岩波アクティブ新書 p7)
 

<近畿総合文化祭美術部門の交流会で鑑賞ワークショップ>

 平成18年度11月18日(土)~25日(日)に兵庫県立美術館で第26回近畿高等学校総合文化祭兵庫大会美術、工芸部門展が開催された。19日の日曜日には、出品作品61点を制作した近畿地区から集まった高校生50名が会場にやって来る。午前中には『明和電気』の土佐信道氏によるユニークな作品のプレゼンテーションと笑いに満ちたライブパフォーマンスを観てもらい、昼食の後、午後は交流会と特別展「エコール・ド・パリ展」を鑑賞する流れにした。交流会を私が担当することになり、対話型の鑑賞ワークショップをすることにした。初めは美術の教員が進行する計画を漠然と立てていたが、以下の出来事で進行は高校生が行うようにしようと考えを改めた。
近畿総合文化祭の4ヶ月前の平成18年の7月に芦屋市美術博物館にて京都造形芸術大学のASP学科が主催するACOPの企画で、アメリア・アレナス本人によるギャラリー・トークが開かれ私も参加した。吉原治良の2作品でのギャラリー・トークに30人近い人数が集まった。私もアメリアの前で何度か発言した。アメリアは何を言っても笑顔で聞いてくれて、ジョークで返してくれて楽しい。対話の妨げになる目の前の作品からでない個人の知識で組み立てられた発言は一瞬で終わらせてしまう。吉原治良や具体のことについて語り始めた老人には、「ズルをしましたね。」とすぐに切ってしまった。意見が出揃って、誰かの発言が作品のテーマに接近した時には一気に、猛然と突き進んでゆくし、なかなかまねの出来ないアメリアの個性と合体した熟練の技だと感じた。後で聞いた話では、このトークはアメリア本人にとって最悪の出来だったそうだが。
続く8月6日には、同じ場所で、京都造形芸術大学の学生が「ナビゲーター(コミュニケーションのための交通整理役)」となって高校生向きのギャラリー・トークをするというので、私が勤めていた東灘高校の美術部の生徒2名を連れて参加する。参加は15名ほどで、ほとんどが県立芦屋高校の生徒だった。県立芦屋高校の岩田先生は10年近く前から芦屋市美術博物館と連携授業を行っている関係もあって、10名強の生徒を引率してきた。参加した高校生たちは、年齢的に近い大学生のナビゲーターに親しみを覚えて気軽に感想を言い合った。
ギャラリー・トークの終了後、学生の様子を観察していた京都造形芸術大の福のり子先生に「高校生が高校生たちの展覧会でギャラリー・トークのナビゲーターをやらせてみたいのですが、高校生に可能でしょうか?」と聞いてみる。「可能かどうかは、練習次第で、造形大では厳しくトレーニングしている。けれども、自分たちの作品についてトークすることは、とっても意味があることだ。その際、一つだけルールを決めたらいい。トークの間、その絵の作者の生徒は何も言わないで、最後にいろんな人の意見を聞いた上で、自分が描いた作品について本人が語るようにする。これはいいですよ。」という答えだった。これに気を良くして、高校生が進行役(ファシリテーター)をする対話型の鑑賞ワークショップの形で交流会を進めることにした。東灘高校の生徒2名と、県立芦屋高校の岩田先生にお願いして5名の進行役を立ててもらい2校が協力して対話型の鑑賞ワークショップの進行役をするための準備に入った。
 準備は、2回の県立芦屋高校で事前研修という形で放課後に進行役(ファシリテーター)をする生徒、関心を持ってくれている生徒が集まって「ワークショップとは?」「対話による鑑賞とは?」といった基本的な解説と、具体的な進め方の実演を私が行い、その後、実際に一人づつ対話型鑑賞ワークショップの演習を行う。近畿総合文化祭本番の1週間前には、兵庫県立美術館の常設展の作品を使って全員が予行演習した。

ピクチャ 5.jpg兵庫県立美術館 

 近畿総合文化祭美術部門展の搬入の折には、県内から集まった美術部の生徒約200名に分担して下記のような感想用紙に作品の感想を書いてもらい、当日進行役から渡してもらうようにした。また、感想用紙に近いデザインで出品者の名刺を作る。
 また、近畿から集まった出品者の高校生には自分の作品の画像の入った名刺を10枚ネームホルダーに入れておき、鑑賞ワークショップの後の名刺交換に使ってもらうようにした。

ピクチャ 6.jpg感想用紙(部分) 

<近畿総合文化祭での対話型鑑賞ワークショップ進行の手順、及び交流会の進め方>

① 自己紹介「○○です。」
② 「作品を見て、見たことから考えて、この場で話し合って進めてゆく鑑賞ワークショップを始めます作品を1分間じっくりと見てください。」
③ この作品から、「何がみえますか?」「あるいは、この作品は何でしょう?」「あるいは、作品の中で何がおこっていますか?」
④ (答えが返ってきたら)「どうしてそう見えましたか?」「なぜそう思いましたか?」(等、オープンに質問をして、そのように見た理由について深く考えてもらう。)
⑤ (別の人に聞く。)「○○さんはどうですか。」(名札の名前を見て呼びかける)
⑥ (答えに対して)「どうしてそう思いましたか。」(~このパターンを繰り返して幅広く作品の見え方を共有)
⑦ 「いろんな見え方があるのがわかってきました。最後に、作者に自分の作品について話してもらいます。」
⑧ 「(作者の自作についての話)」「(まとめの例)こうやって集まって、作品とそれを見る人との間で起こったことを発表しあって、出てきた意見を共有して、作品を幅広く深く受け止めるワークショップです。作者の手から離れた時から、作品は、見る人にとって、作者が予想もしなかったような受け止め方を生んでゆくのがわかりました。ありがとうございました。」
⑨ 「では、名刺交換会に移ります。交換し合う相手の方の作品いついての簡単なコメントを添えて名刺の交換をしましょう。」  (交流会での鑑賞ワークショップの様子/下図参照)
 

<このワークショップに参加した三重県の高3生徒の感想>

 ~2006創造/三重県高等学校美術工芸教育研究会機関誌より~
ピクチャ 8.jpg「交流会では、他府県の高校生たちとグループを組んで、絵の感想や良いところや良くないところを話し合いました。時間がなくて、2つの絵しか出来なかったけど、たくさんの人の話が聞けて、とても勉強になりました。最後に、事前にもらった自分の名刺を同じグループの人たちに配って、交流会は終わりました。」
ピクチャ 9.jpg「この交流会で、僕はたくさん得るものがありました。自分の絵のレベルもよくわかったし、影響を受けた作品もあります。近文祭は、他府県の高校生と触れ合うのにとても良い機会でした。」
 
 高校生になると、作品について語るときに、「このへんがうまく描かれていると思う。」「こういう色の使い方がうまい。」という意見がかなりあって、進行役(ファシリテーター)の生徒がうまく返せない場面もあった。けれど、参加者が、作品について語ったことに「どうしてそう思いましたか?」と返すだけで発言者だけでなく、参加者がみな作品の見方について深くその問題を考えてゆくのが分かった。
ピクチャ 9b.jpg作品の作者が参加者の中にいるので、進行役は最後のまとめを作者にまかせられるのが良かった。自分の作品について語ってもらった生徒はいろんな受け止められ方をするのが発見だったようだ。参加者にとっても、最後に作者の声が聞けるので納得がいったようだった。目の前の作品の中に見えているものから話を始めてゆくのは、進行役の適切なガイドが必要ではあるが、参加者にも何回か見ている目の前のことから話す経験が必要に思えた。
 

<進行役の生徒に起こった出来事>

ピクチャ 11.jpg 進行役を引き受けてくれた生徒たちは、交流会終了後にその場で簡単な反省会をして解散した。みんなで出口のほうに進んで帰ろうという時に、進行役の高1のT君が立ち止まって、「実は、この作品(左作品参照)は、僕の作品なんだけれども。」と言った。
するとみんなが立ち止まって、作品を観察し始めて、それぞれが意見を言い始めた。ギャラリートークが勝手に始まってしまったのだ。この自然発生したギャラリートークに私は非常に感激した。T君は日ごろほとんど自分から話をしない生徒だった。T君が自分から話をしたことがまず驚きだった。
まだ美術館内だったとはいえ彼らにとっては解散後の日常の中で作品をめぐる対話が起こったことの意味は大きい。ファシリテーター経験が日常のコミュニケーションを活発にし、アートについて自発的に考えるきっかけを生むのではないかと、教育的な意味を考えるようになった。
 

<阪神間の高等学校が集まる『絵美展(西宮市民ギャラリー)』での鑑賞ワークショップ>

 毎年夏休みの前半に、阪神・丹有間の高等学校の美術部が出品する『絵美展』は、2007年(h19年)夏で9回目となった。毎年最終日に交流会をするが盛り上がらない、というので「鑑賞ワークショップ」を近畿総合文化祭でのパターンで実施することにした。ただし、事前に出品する生徒が集まる機会は会期の1週間前の1回だけしかない。それも全員ではなく、参加する各校の代表の美術部生徒、顧問が引率という形だ。その場で、鑑賞ワークショップの概要と進め方の話をして、各校から1名づつ進行役を当日出てもらうようお願いする。進行表は、上記にあるように近畿総合文化祭の時に行った①から⑧の流れをプリントして配る。

 最終日の交流会では、7、8名のグループに分かれて、進行役がプリントを見ながら3点~5点の作品による鑑賞ワークショップを行った。様子を見て実感したのは、急ごしらえでファシリテーターは養成できない。ピクチャ 13.jpg  絵美展でのワークショップ 

ただ、参加者で意見を言い合うだけに終わってしまうケースも見られて、対話を深めてゆくのは難しい。出品作品も比較的小さな作品が多く作品からいろんな言葉が生まれにくい面もあった。
 
 

<中高生が進行する対話型『鑑賞ワークショップ(西宮大谷記念美術館)』>

 やはり、進行役(ファシリテーター)は、本格的に養成しないと成果があがらないと思い、昨年夏休み後半に本校から2kmの距離にある西宮市大谷記念美術館と連携して、本物の芸術作品を使った対話型の鑑賞ワークショップを高校生を進行役(ファシリテーター)として養成して実施する企画案を考えた。これは、兵庫県高等学校文化活動交流支援事業として県の助成を受けて実施した。
 夏休み明けに企画書を持って、西宮市大谷記念美術館に行った。美術館では、ちょうどボローニア絵本原画展を開催中で平日にもかかわらず、来館者でにぎわっている。30年以上この企画を続けた成果だ。学芸課長の川辺さんからそう伺う。西宮今津高校とのこれからの連携を含めて、高校生が進行する対話型の鑑賞ワークショップについての提案をしたところ、快く承諾していただけた。美術館にとって、学校との連携は、これからの課題であり、隣に位置している香枦園小学校や近隣の中学校とは交流があるが、高等学校とは全くやり取りがなく、どのように接点を見出せばいいかわからないでいる状態だったので、この機会を参考にして今後につなげたい。とのことだった。
 まず手始めに、西宮今津高校2年生のビジュアルデザインを受講している生徒20名を対象としたボローニア絵本原画展の鑑賞授業を9月に実施した。学芸課長の川辺さんからボローニア絵本原画展の説明を受けて(左参照)、展覧会の作品を鑑賞してワークシートを書く形態の授業だ。校外に出た開放感であっという間に鑑賞を終えて帰ろうとする生徒が少なからずいた。ビジュアルデザインを選択していても美術そのものに関心の薄い生徒が3人に1人程度の割合でいるのがわかった。
けれども、本物を見る経験は、かけがいがない。展覧会に行った次の授業では、ボローニアの絵本原画展であったような版画と組み合わせたような絵を描きたい、と言い出したのは、あっという間に帰った生徒だった。本物を見ることは、何かやりたいことに勢いを与えるような作用がある。
 10月には、中高生が進行する対話型『鑑賞ワークショップ』というタイトル、日程、内容として高知大学の上野行一先生による講演、ワークショップの流れについて美術館と打ち合わせをした。1月の下旬は、近代日本の収蔵品展の企画となることが美術館でも固まっていた。
 

<チラシでの進行役の全校的募集>

ピクチャ 15.jpg 11月下旬にチラシを完成させて近隣の中学校や高等学校への送付作業をする。美術の授業の中でも全学年の生徒にチラシを配り、ワークショップの進行役をやってみないか?と誘いをかけてゆく。職員会議にもこのチラシを使い先生方への生徒への呼びかけの協力を依頼し、全校生にも配布して呼びかける。生徒からの反応はほとんどない。公募して集める計画だったが、夏の『絵美展』を経験した1年生の美術部員を進行役の母体にする。部員たちは、しぶしぶ引き受けてくれて、彼らの友人にも参加を呼びかけてくれた。美術部員6名、1年生の男子生徒2名、計8名が進行役に決まった。近隣の高校から進行役に参加したいという声はなかった。年が明けて近隣の平木中学から進行役参加希望の中学1年生の生徒が加わり9名となった。鑑賞作品を8作品にして、中学1年生の進行役の生徒には高校1年生のサブの進行役の生徒とチームを作って対応する。

 <美術部部員に経験を積ませる>

 美術部を中心とする進行役の生徒には、昨年7月ごろから作品の批評会と称して鑑賞ワークショップ形式で進めたりして経験数を多くなるようにしていた。昨年秋の10月11月と全8回で実施していた土曜日実施の大人向けの地域公開の芸術公開講座を実施。内容は、人物デッサンを中心に進めたが、保護者が2名の参加だったため、美術部や美術系大学進学希望者にも参加してもらっていた。12月15日(土)には、芸術公開講座の最終回を大谷記念美術館で実施し美術部員も参加して鑑賞会を行った。美術館は、会場を縮小した常設展だった。鑑賞会の内容は、まず、この会場で自分のお気に入りの作品を1点選び、一人で鑑賞し、次に私が進行役(ファシリテーター)をして鑑賞ワークショップを実施する。最後に、美術館の学芸員の内村さんにも作品の解説をしてもらうようにした。
① 一人で鑑賞する。
② 7、8人で対話型の鑑賞ワークショップをする。
③ 学芸員に解説してもらう。
 この3つの鑑賞法の違いについて、美術部員に話をして、どの鑑賞法が作品の印象が最も強く残ってゆくのか、全員に聞いてみた。②の対話型の鑑賞ワークショップと全員が答える。言葉を公に口にすると作品の印象とともに記憶に残りやすくなる。
 

<冬休みの課題に鑑賞ワークショップに役立つ内容を盛り込む>

ピクチャ-17.jpg冬休みに、進行役の生徒がほとんど選択している1年生の美術1で宿題を出す。教科書(高校美術1/日文)の中にある日本美術の中から1点選び、模写する。
 模写する中で絵について発見したこと、気づいたことを35項目書く(右図参照)。作品の中で何が起こっているのか、一つの見方だけでは、35横目は書けない。別の見方もできるようにして対話型鑑賞ワークショップの参加者となった時に、目の前で見ている作品そのものから多様に語れる力につながるようにした。
 選んだ作品の作家や作品について調べる。調べることで選んだ作品への愛着がわく。自分の選んだ作品の芸術性について、自分の芸術観をもとに記述する。その作品をどのように位置づけるかは、進行役をする際にどのような話が出たときに発展的な質問を重ねてゆくかという手がかりとなる。教科書を使って、対話型の鑑賞に必要な、見ているものから言葉を引き出すためになるものを課題として考案した。
 

<進行役(ファシリテーター)の養成>

 西宮大谷記念美術館の『近代絵画の美』の会期が2008年1月2日から始まる。講堂を借りて1月7日(月)に1回目の進行役養成講座をする。進行役の生徒を美術館に集めて、個々に鑑賞した後、どの作品を使って鑑賞ワークショップを行うのか決めて、選んだ作品について冬休みの課題のように作品を見て気づいた項目について、できるだけ多く書き出すワークシート作業を行う。その後、美術館の講堂で学芸員の内村さんからどのようにして作者や作品について調べてゆくのか、話をしてもらって、進行役の生徒が自分の選んだ作品や作者についてどう調べてゆくのがいいのか、参考にできることを教えてもらう。
生徒たちが選んだ作品は本番の項目で紹介している。
 その後、学芸員の内村さんも交えて鑑賞ワークショップの演習を2作品でする。進行役の生徒は、美術館の中での始めての進行となり、どのように話しをつないでゆけばいいのか、皆シドロモドロだった。本来、ワークショップでは、参加者から自然と手があがって話しが進んでゆくようにするのが気持ちいいし、盛り上がってゆく。けれども実際には手があがらないこともある。進行役は「○○さんはどうですか?どう?」といろんな人に指名して話してもらうようにした。学芸員の内村さんが発言するとそれがこの作品の答えであるかのような説得力があるのだけれど、高校生の進行役の生徒は、おかまいなしに「どうしてそう思いましたか?」「他にありませんか?」と、色々な意見を聞いてゆくので、どの意見もそれぞれ均等なものとして残ってゆくところがこの鑑賞ワークショップの面白いところだと感じる。
 1月10日(木)放課後に美術館に行き、2回目の鑑賞ワークショップの練習とマスコミ広報用の写真を撮る。1回目の練習で進行役の生徒は、次に何をするのかに気を取られてトークの内容に集中できていないと感じて小さなスケッチブックに参加者への問いかけをあらかじめ書いておき、これを紙芝居のようにめくりながら進行するスタイルで練習してみる。参加者は、進行役の生徒、私、学芸員の内村さん。第1回目の時は、指名されても「ウーン」と話し始めるまで時間がかかっていたが、だんだんとこのメンバーの参加者としての発言が言葉としてもスムーズに出てくるようになってきたのが感じられた。1月12日(土)の読売新聞の朝刊に掲載されたが写真はカットされた。けれど、この記事の効果で10名近い一般の方からの申し込みがあった。前頁に参考として載せている「進行パネル(例)(次ページ参照)」は、進行パネルを個々に作る際、練習する際の参考に使った。
 1月17日(木)に美術室に進行役を集めて、一人一人にスケッチブックを渡して、ここに紙芝居風に問いかけの言葉を自分の言いやすい言葉に作り直して、19日(土)に予定している3回目の美術館での養成講座に持ってくるようにする。19日には、平木中学の中学1年生の進行役希望の生徒も加わり、当日の大きな流れ、対話型の鑑賞ワークショップの具体的な流れを確認し、実演を交えて全員に話をする。話の後は、進行役の生徒が自分で作ってきた進行ボードを使って本番のリハーサルをした。

ピクチャ 18.jpg当日予定している8作品全ての作品でリハーサルをしてはその場で反省会をした。進行役の立ち位置や参加者として聞いてほしかったことなどについて進行役の生徒に返してゆく。初めに参加者にじっくり作品を見てもらうときには、進行役の生徒は、作品から離れて立つと、参加者は自然と作品を近くから見たりできる。立ち位置の大切さもリハーサルからわかってきた。また、参加者の話した言葉をオウム返しで確認することも重要とわかった。

進行役の生徒も前半の流れは良くなってきたが、後半さらに作品について突っ込んだ質問をしたり、最後にその場でまとめたりするのは、作品を語る言葉が不足してか、全員が難しく感じたところだった。それでも、この日のリハーサルで、進行役の生徒はほぼ2回鑑賞ワークショップの練習ができたことになる。指導して感じることは、同じ作品で同じメンバーで鑑賞ワークショップをしても、同じような話の流れには決してならないし、内容も異なってゆく。それもまた、作品が受け止められる揺れ幅の中に入っているのだと感じる。いい作品と思えるものほどいろんな対話が生み出されてゆく。
ピクチャ 20.jpg 最終確認として、1月24日(木)放課後に進行役の生徒が美術室に集まり、当日の打ち合わせと、作品のポストカードを使って、リハーサルをする。イメージトレーニング用の一人ワークショップシートを配る。(右参照)
 
<本番>
 進行スタッフ12名(高校生8名、中学生1名)、参加者34名、計46名が美術館講堂に集まり、始めに『対話と鑑賞』をテーマに高知大学教育学部上野行一先生より講演。対話による鑑賞がもたらす創造性について詳しく話してもらう。(下図参照)
 
参加者に「対話型の鑑賞ワークショップ」の意味を理解してもらった上で4グループに分かれて1作品20分で2作品のワークショップを行う。各グループには8名から10名の構成。
(取り上げた作品と鑑賞ワークショップの様子は下図を参照のこと)
A班
梅原龍三郎『浅間山秋色』(1962)   長谷川昇『少女と犬』(1931) 
B班
 
 
 
鈴木信太郎の『長崎風景』(1966)  黒田重太郎『やまどり』(1936) 
C班
山下摩起『婦女図』(1939)    北野恒富『春餘』(1929~1930) 
D班
横山大観『春秋山水図』(1939)    橋本関雪『僊女』(1926) 
今回のワークショップの参加者は美術館や解説ボランティアをされている方や教員が多く、小学生連れの保護者、中高生、という構成だった。たどたどしい進行役の中高校生に大変好意的で、協力的だった。今回進行役をした高校生以上にファシリテーションへの理解のある方もおられた。稚拙な進行にかえって緊張した方もいたように思う。安定感のある進行役の存在が、参加者が自由に話をするためには欠かせない。
ワークショップ後の意見交換会で 進行役の生徒への上野先生から大切なのは、間合い・タイミングで話が切れないように持って行くようにする。「他にありませんか?」これは、話が切れてだめ。つなぎ方を考える。自然に意見が出てくる状態がベスト。作品を選ぶときは、物語性のあるダイナミックな絵を選ぶといい。また、通常1セッション20分で行う。作品として強いものほどいろんな話が出る。ゲルニカには大学の講義では60分から90分かける。高校生たちは、最後のまとめに苦しんだが、無理にまとめなくてもいい。 色々な意見が出るのが重要と考える。ただ、美術館でギャラリー・トークをする場合は、参加した方に満足感を持って帰ってもらわないといけないので、進行役はかなりのトレーニングが必要となる。アメリア・アレナスも毎日自分が行ったギャラリー・トークを細かく日記で書いて振り返り点検している。一流品は一朝一夕にはいかない。
 

<進行役をした高校生の感想>

・ 進行役がいるからこそワークショップが成り立つと実感。
・ 緊張して、対話の内容を把握できなかった。
・ 作品を調べたり、自分が話すことを考えたり、事前準備をもっとしておけばよかった。
・ たくさんの人と意見を言い合えてとても良い経験になりました。
・ すでに2回同じ作品で練習してもうこれ以上新しい見方はでないだろうと思っていたものでも複数の新しい見方が出来てワークショップの意味を感じた。
・ 本番はパニクリながらやっていたが、このワークショップはいい経験だった。
・ 参加してもらっている大人に助けられた。
・ 多くの意見が出て、まとめが意外とすんなりできた。
・ 高校生の人とこのようなワークショップをするのは初めてで練習から本番まで非常に緊張した。高校生の進行サポートには助けられた。高校生は、発表の仕方がしっかりしていると思った。
 

<参加者の感想>

<A班>
 
 班の人たちがそれぞれ何を感じているのかがよくわかりお互いの捉え方の違いがよくわかった。違いを知り合うのはいいことと思う。
進行役の人の準備は大変だったと思うが、よくすすめられていた。自分の知っている作品や作家のことも、もう少し話してもらってもよかったのではないかと思う。基礎学力、基礎知識の注入、育成と活用という観点は、このトークの中や前後でどうしていけばいいのか、また、教えて頂けたらと思う。
 
絵を見ると、①とてもよく印象にのこること②気になる小さなこと、が同時に沸き起こります。①については自分で勝手にやれるのですが、②は、次々湧くので、すぐ忘れてしまいます。対話型で数人で見ると忘れていたことにもう1回気づけるのでよいな、と思いました。
様々な意見を受け止めて、その場を作るのは、楽しくも、エネルギーを使うことなので、大変だったのではないかなー、と思いますが、とても準備を丁寧になさっているのが伝わっていい場所でした。ありがとうございました。
 
年齢も多様な皆さんのそれぞれの意見を感じることができて面白かった。
進行の方が単に投げかけをするだけでなく、「私はこう思ったんですよ。」とか自分の意見・印象も述べてくれたのは良かった・
最後のまとめが難しいと思った。あるいは、まとめなくてもよいのかも・・・
高校生のお2人、お疲れ様でした。ありがとうございました。
 
対話型の鑑賞は新鮮で思いつかなかった意見が出て、何度もうなずけたのがおどろきだった。絵は、部屋に入って一番最初に目についたものだったので、「あっ面白い。」と思えてストーリーも浮かんできた。これからは、絵をもっと深く見ることができると思う。とてもいい経験になったと思う。
 
絵を真剣にずーっと見てたら、悲しくなったり、楽しくなったり。質問が自分の中に出てきて絵につぶやきました。新しい絵の作品が出来たら見にきたいです。
 
いつもはただ観て感じるだけなので色々な人と感じたものを話すことで、また違った観かたがでできて楽しかったです。ありがとうございました。またワークショップがあれば参加したいです。
 
<B班>
 
人によって色々な見方があるなと思った。対話することで、違うみかたもしることができてよかった。
 
今まで見たこともない絵がたくさんあり、また、その絵の中から自分が好きだと思う絵が見つかりよかったです。
 
他の人の感想を聞くと今まで思っても見なかったことが分かったり、自分ではうまく表現できない感情を言葉にしてくれたりと、とても勉強になりました。
 
Yくん「長崎風景」 最初だったので、Y君の緊張も伝わってきて、最初のうちは場の空気が少し硬かったように感じました。自己紹介が硬かったかも。話が遠近法に流れてしまったけど、もう少し色のかわいらしさや、絵全体のかわいらしさについての意見を言えばよかったです。
Hさん「やまどり」 2回目だったので、メンバーの雰囲気も、やや、和らいできてよかったです。いろいろな意見が出てきたものをまとめていくのは、難しかったと思いますが、最後にうまくまとめてくださいました。
お2人ともお疲れ様でした。
何度も続けてる中で、うまく対話につなげていけるのではないかなぁ。対象者を中・高・大人にせずに、子どもがいてもよかったかも。
 
一つの絵を見て色々な意見を出し合うと言うものでしたが、思った以上にたくさんの意見が出て、意見が出るつど「あぁ、そういえはそうだなぁ」と納得できて、良い体験が出来たと思いました。
 
同じ絵を見ても、思いもよらない意見が出たのも、それが聞けたのも面白かった。
絵を見てその状況を想像するのは楽しいと思った。
 
いつもなら、なにげなしに通り過ぎてしまう絵であっても皆さんの意見を聞いて、改めて見てみて発見があり、驚きがありました。
見ているつもりで、みていない、好きでないもの(作品)であれば特に見ていないので、今回は自分の反省にもなりました。 とても楽しかったです。
 
進行役のお二人、ありがとうございました。
色々な感じ方を聞く中で、刺激され、見方が深まっていく体験をしました。
 
司会する人がそれぞれに、自分の考えも持ちながら、参加者の意見をうまくまとめていたと思います。初々しい感じで、好感を持ちました。
 
<C班>
 
対話型鑑賞により、初めての者でも(他者の意見を参考に)深く楽しめました。
生徒さんがこのリーダー役を務めるというのは、美術の学習において大変意義深いことだと思います。今後この動きが広まれば、と切に願います。
 
とても勉強になりました。他人の意見を聞いて、「あーなるほど」とか共感できたりしました。よく見ればよく見えるし、よくみなかったら絵があるというようになることがわかりました。
人の意見を聞くことは、大切だと思いました。
 
いろんな年代の人たちの意見を聞いて、「あ~、言われてみればそうだ」と言う場面がありました。
自分ひとりだけじゃなくて、他の人とも話しながら見ると、また、違う感性が湧きました。
 
普段は絵を見ながら意見を交わすと言うことがないので、とてもよい機会になったと思います。
大人の意見はやっぱ少し違うと思いました。
楽しかったです。
 
2つの絵を見たが、画家が謎をかけているような絵は、多人数で見ていると、少しほぐれるように見えてきて、話し合いの面白さを感じました。
一方、偶然性に左右されるような絵は、なかなか感想の言葉が難しかったです。
 
面白かったです。視点が多いことで作品の形が目の前で変わっていくのが「ライブ」でした。
司会と参加者の高校生間での意見の引き出し合いが効果的に行われると、もっと別の角度からの意見が場に並んだと思います。意見を発表するのは難しいことですが、そこのコミュニケーション能力は大事だと思います。
 
<D班>
 
他の人の意見を聞くことによって様々な見方が出来ました。
色んなシチュエイションを想像することが出来て面白かったです。
 
ファシリテーター役は大人でもとても難しい。中高生の皆さんも大変だったと思います。もっと作品を観る経験を積んでください。
 
ファシリテーターの皆さんがとてもお上手になっていてびっくりしました。D班という一つのチームが1作目から2作目に移動している間に、出来てきたような感じで、一人何回かずつしか発言するチャンスがなかったにもかかわらず、とっても良い雰囲気になったのにびっくりしました。このワークショップは平木中でも広めたいと思いました。
 
こんなに真剣に絵を鑑賞したのは初めてで、よい、経験となりました。進行も今後何度もこんな機会を設けて、多くの子どもたちに、体験してもらいたいと思います。
 
御苦労様でした。
2回ともファシリテーターの最後の挨拶で「色々な見方が出来ました、ありがとうございました。」という発言。台本でしょうか。気になりました。
取り組み自体は可能性を感じます。ただ、作品制作への展開の意義をもっと具体的に伺いたかったです。
絵画が現代美術のように何が描かれているか、分からないのでなくて、具体的なものが多かったので比較的、理解できた。
あぁ、こんな見方もあるのだと人の意見を素直に聞くことが出来ました。
 
初めての体験で新鮮でした。もう少し色々な意見が出るともっと見方が広がるのかなと思います。
リーダーは重要ですね。
 

<まとめ>

 ファシリテーターの経験を通して、高校生は対話の意義を理解してゆく。高校生は、会話はしているが、対話をしていない。これは、多くの大人も同じである。参加者の発言をそれぞれ大切にしてゆくかないと成り立たない。ファシリテーターの参加者の発言を取り扱う態度の中で、対話の持つ意味が養われてゆく。そのためには、周到な準備と多数の他者を前にした緊張のステージ経験が必要である。ステージを終えると自信が生まれる。まずかった、という思いも少し残る。でも、感想を読むと好意的なことに安心し自信が定着する。
 
 対話とは何か。平田オリザは『対話のレッスン』の中で、(対話は)「異なる価値観のすり合わせ、差異から出発するコミュニケーションの往復に重きを置く」態度で、「それぞれの価値観を対立させるのではなく、価値のすり合わせによって、新しい価値を創造する。」と言う。対話は、異なる見解をすりあわせることで自らの考えを変えてゆくことを潔しとして認めてゆく点で極めて自己教育的である。
 参加者の感想の中に「作品制作への展開の意義」についてあったが、何かを制作する時には、制作者の脳の中で、対話が起こっている。「つくろう」とするものの発端(なにものか)の抽象度が高まるほど内なる対話なくして創り出すことは出来ない。岡本太郎は、『壁を破る言葉』の中で「なにものかが現れるまで私は画家でない。」と語っている。美を探究したり、新しいアートを創り出すという創造の最前線では、激しい対話が渦巻いているのは明らかだ。つまり、鑑賞ワークショップで行った対話のスタイルは、個々の制作の中でも激しく行われると制作の現場に生かされる、という仮説が立てられる。実証は、これからである。
 
 今回ファシリテーターを引き受けた9名のうち6名が本校の美術部員で、彼らには昨年末からベニヤ板1.5枚のスケールの絵を春までに描くことを義務づけている。これらの制作がファシリテーターをやる前とどのように変わるのかはこれから様子を見なければならない。
 中高生にファシリテーターを経験させることは、立派なギャラリートークの進行者を目指しているのではなく、自ら内なる対話を起こせる力の養成につなげたいというねらいが大きい。アート起こしの美術教育を進める前提条件ともいえる。
 
 脳科学者の茂木健一郎は、講演会の中で「グーグルの最高経営者のエリック・シュミットは、一人の天才の意見より、30人の普通の人の話を聞く。その方が正しい。と話していたが、これは非常に科学的な態度だ。」と取り上げていた。これは、検索エンジンで巨大企業に成長させた経営者の言葉であって、美術や教育のような他の領域には何の関係もない言葉ではない。ここから生まれてくる新しいタイプの創造の可能性を感じる。これまで、創造行為が一人の天才の奇跡として個人の中に封印されていたものが、多数の価値観や個別性の持つ質感の違いなどが創造につながるようなアートが出現するのも時間の問題と思う。
 
 美術の授業の本質は、創られた芸術作品の技法の模倣にあるのではなく、味わうことと、それが創造された場面での感動に立ち会う中で、いかに自分自身のありように関連付けて自らが持つ創造へのスイッチが入るかにかかっている。創造行為のありようを美術教育が追いかけている限りホコリをかぶることはない。そういう点から考えると、これまでの美術教育は創造行為に言葉が強く関係してゆくことに無関心すぎたと反省しなければならない。
 
 要約すると高校生にとってのファシリテーター経験は
 
① 他者を受容する自己教育的な態度を養う。
  (他者の言葉は自己の無意識ということに気づく)
② 制作過程の内的な模索や試行錯誤は、対話的になされており、内的対話のモデルになる。
③ ファシリテーターの経験が造形活動にどのようにつながるかはこれからの課題。
④ ワークショップ形式が、多数の人々が参画するコミュニケーション型のアートに発展する可能性がある。
⑤ 美術教育の中で無関心であった批評的な言葉の力と造形行為とのの関連を対話スタイルの言葉の力として再評価し、教科に取り込むことができる可能性がある。
 
 
 

参考:「中高生が進行する対話型鑑賞ワークショップ」の詳しい経過は、下記ブログにも公開している。
   アート起こしの美術教育
 http://artokoshi.spaces.live.com/ 
      カテゴリイ:鑑賞教育でまとめて出てきます