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更新日 2018-08-29 | 作成日 2018-07-27

 学び研 東北・秋田大会によせて

上野 行一

*「美術による学び研究会のメーリングリスト」への投稿から転載
2010年12月18日

いよいよ東北・秋田大会が開催に向けて始動いたしました。

大会運営の中心となっていただく黒木先生を始め、
運営メンバーのみなさまには、
年末学期末の多忙期にもかかわらず精力的にご準備いただいており、
感謝申し上げる次第です。

13日に立ち上げた運営グループメールも60本を越え、
80cm超の積雪、寒さで4時に「目冷める」、
車のドアノブが凍りついて取れた、など
信じられない寒さの中で熱く熱く語り合い、
準備が進められています。

黒木先生の言われる、
> とにかく「語る、学ぶ」がキーワードの大会です。
> 全体としては発表者の持ち時間以上に参加者が発言する時間(意見交
> 換、意見交流の時間)を設定しています

これは画期的な発想です。
従来の研究大会一般にみられる発表中心で
「討議の時間が足りない」という状況を一新する大会です。
一方通行ではない、まさに双方向の相互的な研究会になるはずです。

参加者(学び手)が主役になる大会ということができます。
これは学び研の学びに対する基本姿勢と重なります。


> 大会告知から当日まで、各フォーラムの内容が変化して(深まって)いくの
> も特徴かもしれません。

これも学び研ならではの発想です。
大会を到達点とのみとらえ、結果だけを重視するのではなく、
その過程での思考を大切にする姿勢もまた、
学び研の「学び」についての考え方と重ね合わすことができます。

学び研東北・秋田大会は、
これからの研究大会の姿を示す大会となることでしょう。

2月11日12日、
秋田に集まり、学びについて語り合いましょう。


美術による学び研究会 代表 上野行一







 学び研 山梨大会によせて

上野 行一

2009年10月23日

9月、フランスやイギリスに調査に行ってきました。

ルーヴルでもテイトでも感じたことですが、

理念と実践の乖離の克服が今も昔も洋の東西を問わず、課題だなということです。

ルーヴルの教育部署のトップの方が、美術について学ぶのが本来の狙いではない。
美術を通して人間的な成長を促すことが教育の狙い、というようなことを強調された。
わたしは大いに頷いたのだけれど、それが実践部門の方の話になると、美術について学ぶことと、
それを通して成長することの両方が大切と、学習指導要領のようなことを言われる。

そして実際に拝見したプログラムは、作品の解説であり質問を受けて答えるという
どこにでもあるスタイルだった。
見ようによっては美術を学ぶ教育。このトーンダウンは一体何なのか。

美術がいかに人間の生活や人生にとって必要なことであるかは
 時代が移り、語る視点は変わっても、
理念自体は大方の賛同を得るものだ。
それこそラスキンにしてもリードにしても。

しかしそのような理念を美術教育がきちんと具体化しているという社会的な実感があるのだろうか。
きわめて希薄だと思う。
だから美術教育が必要だという体験に基づいたコンセンサスが生まれてこない。

ルーヴルのプログラムを実施されている方もトップの方のような理念をおそらくおもちだろう。
理念はわかっていても、
自分の実践がそれを具体化した題材・方法であるかどうかが省察できているのだろうか。
学ぶ側がどのようにその授業の意味を感じるのかを。

それは子どもの学びを検証することから可能になる。

しかし、そこが美術の場合、明確に示すことができない部分が多く、
曖昧なままで今日も続いている。

そこで、学び研の山梨大会ですが。
鷹野先生、ご尽力ありがとうございました。
舞台に出ていただきたい方が出揃いましたね。

実践について、
学ぶ側の子どもにとってそれがどういう意味を感じさせるものであるのか、教師の意図からではなく生徒の実感から省察する会にしましょう。

わたしもひとコマあるのですが、

間に合えば、例のクラス・ルーヴルを経験した生徒の学びについて報告したいと思います。

みんなで学び甲斐のある会にしましょう。







これまでの鑑賞教育、そして…

上野 行一

対話による鑑賞教育への誤解

鑑賞教育が脚光を浴びています。
学習指導要領が改定されたことも追い風なのでしょう、
ありがたいことですね。

全国的規模の学会である大学美術教育学会と
美術科教育学会誌の二つの学会誌について調べてみると、
鑑賞教育に関する論文数は、
1970年代が14本、1980年代が20本であるのに対し
1990年代は78本と飛躍的に増えています。
2000年代はすでに80本を超えている。
鑑賞は研究対象としても、まさに旬を迎えているのです。

研究内容は多岐にわたっていますが、
私たちが進めている対話による鑑賞に関する研究も数多くみられます。
とはいえ対話による鑑賞は一般に認知され始めたばかりですから、
一面的な理解や誤解も多々みられます。

「子どもに自由にしゃべらせて、鑑賞と言えるのか」
「対話では作品を理解したことにはならない」
というような素朴な疑問や初歩的な勘違いは、
全国どこへいっても耳にします。
極めつけは
「アメリア・アレナスが対話型を日本に紹介した」
という類。
そんなわけないでしょ。

ここまでは苦笑で済ませていたのですが、
対話による鑑賞では「教師は質問を繰り返す質問者に過ぎない」との曲解やら、
アビゲイル・ハウゼンが対話による鑑賞の雛型をつくったという過言が
学会の学術論文にまで及ぶ事態となると、ことは穏やかではない。
(審査員に査読された論文ですよ!)

過渡期にありがちな現象なのですが、
もう放置しておくわけにはいかないところまで来ている。

まずは、日本における対話による鑑賞の受容の様態を整理すること、
そして実践の実態を明らかにし考察することが必要と思います。
そして、それらを通して正確な情報に基づいた実践と研究が推進されることを期待し、徒然に書いていこうと思います。

アレナスとDBAE

上野 行一

アレナスとDBAE
 2002年以来、鑑賞教育の重視を改革理念の柱の一つに据えた新しい学習指導要領による美術教育がすすめられている。改革の動向を探る上で、また教育実践上のよりよい方策を模索する上で、この10年間わたしたちはアメリア・アレナスがおこなっている鑑賞教育に注目してきた。彼女のおこなう対話形式の鑑賞法は、自ら考え自ら学ぶ「生きる力」の育成を中心理念に掲げる教育改革の具体像を、見事なまでに示していたからである。
 日本の改革に先立つこと約四半世紀前、アメリカではすでに鑑賞教育重視の方向性が打ち出されていた。80年代に盛んな議論を呼んだDBAEもそのひとつである。DBAEは美術制作(art production)、美術史( art history)、美術批評(art criticism)そして美学(aesthetics)の4つのディシプリンであるが、その三つまでもが鑑賞に結びつくカテゴリーであった。
 ゲティ・センターが基金を出し、DBAEの具体的な教育プログラムが作成された。アメリア・アレナスはこのプロジェクトにもメンバーの一人として参加していた。この章では彼女の理念と方法論を、アメリカ合衆国における美術の教育改革すなわちDBAEの視点から考察してみよう。

 DBAEとは、(Discipline-Based Art Education)の略称であり、美術の学問性に基づいた美術教育の全体構造を指すものである。
 多くの教科の教育改革がそうであるように、DBAEもまたスプートニク・ショックの後遺症とみることができる。1960年代のアメリカ合衆国は、1957年のスプートニックのショックからそれまでの教育に対して焦りと行き詰まりを感じ、以後の教育改革において、教科の原理や構造を主流とした「ディシプリン中心カリキュラム」25)を提唱する。その「ディシプリン中心カリキュラム」については、佐藤学がその概念と構造について研究していたシュワブ(Joseph Schwab)の論説を基に次のようにその特徴を述べている

 「『ディシプリン』という概念は、一般的には、『学問性』と訳されるように、その学問を特徴づける本質的な内容と方法を意味している。そこから敷衍して、この概念は、個別の学問それ自体を意味する用語として普及している。しかし、『ディシプリン』という言葉は、『弟子』や『訓練』や『陶冶』をも含意するように、もともとは、特定の学問を探求する親方と弟子の関係、すなわち、学問探求のディスコースを共有する共同体を意味していた。したがって、『ディシプリン』を個別科学の知識の構造としてのみ理解することは、この概念の広がりと奥行きを捨象することにほかならない。シュワブは、『ディシプリン』の原義にたち戻り、『探求』のディスコースとそれが生み出す共同体の両面から、『ディシプリン中心の教育』の可能性を探っていたのだと言えよう」

 このように、佐藤氏はシュワブの論説から「ディシプリン中心カリキュラム」のついて、教科の持っている固有な領域を深めていく学習と、その教科の持っている固有な領域を学習内容や方法の中に組み込み、教科自体をさらに追求する概念としてそれは意味を成していたと述べている。27)つまり、知識の構造として美術を習得することのみならず、それは学びの共同体の中で探求的になされる学習と、追求していく人達の集まりをも意味するというのである。

★他の教科の事情

 DBAEは、そうしたアメリカ合衆国の教育改革「ディシプリン中心カリキュラム」の流れを受け、美術教育の中に「ディシプリン」に基づく美術の可能性を求めていこうとした1980年代に興った運動であった。改革の全体構造の中にDBAEも位置づけられるのであり、よく誤解されているのだが、美術の領域における特異な現象ではない。

 DBAEは当初こそ美術の教科内容を子どもたちに注入することが主流であったと見られており、その事は、藤江充がクラーク(G.Clark)等による、DBAEの定義を要約したものからも伺うことができる。28)
 まず、第1にその目標としては美術に対する理解と解釈する生徒の能力を発達させることに重点を置いている点。生徒の美術に対する理解と解釈の能力とは、ここでは美術の理論や背景に関する知識、美術を制作することと美術を感じることの両面から発達する能力を指している。そして、美術を教育の中で本質的なものとして教えることやそこから専門的な美術学習への足掛かりとして在るものだと位置付けられている。
 第2には、教科内容において(1)美術の特性に関する諸概念の形成、(2)美術を評価し判断するための基準を培う、(3)美術が創造されてきた背景を学ぶ、(4)美術を創造するための過程と技術を扱うことを基本とされていたことからも、DBAEで考えられていた美術教育が教科内容の注入によるものであったことが分かる。
 しかし、この頃のDBAEに対しては教科中心の美術教育の在り方や美術における制作活動の軽視などの批判もあり様々な論争を呼ぶことになった。

 佐藤が指摘するように、ディシプリンを知識の構造としてのみ理解することはこの概念を矮小化するものであり、適切な実践を生むことにはならないだろう。DBAEの教育を検証するとすれば、教科内容の側面だけではなく、探求のディスコース、すなわち対話による問題解決の過程、共同体による学習という側面に注目する必要がある。

アレナスはまさにこのDBAEプロジェクトにメンバーとして参加していたのである。

アレナスとNTIEVA

上野 行一

アレナスとNTIEVA
 この写真は1995年、ジャック・デービスやナンシー・ベリーらとともに行動した全国美術館/学校共同作業(School Collaborations)センター設立の諮問委員会の記念写真です。
アレナスはどこにいるかわかりますか?

アレナスとNTIEVA

NTIEVA すなわちNorth Texas Institute for Educators on the Visual Artsの任務はdiscipline-based art education(DBAE)の実現における研究とスタッフ開発を行うことと明確に規定されている。
*DBAEは美術で学ぶことへの包括的なアプローチである。美術作品の教育を中心に置いて、美術の創造と理解と鑑賞に寄与する4つの基礎的な美術のディシプリンから内容を導くものである。
美術制作(art production)、美術史( art history)、美術批評(art criticism)そして美学(aesthetics)
NTIEVAはDBAEの理論と実施に関する大規模な研修を実施している。実施は学校区単位であり、美術の専門家やアート・スーパバイザ、教師、校長、監督者、および教育委員会のメンバーによる組織に対して実施される。また同様に美術館教育者とドーセントに対しても行われている。
  NTIEVA組織のメンバーはアモン・カーター博物館、ダラス美術館、キンベル美術館、メドース博物館、フォートワース近代美術館、ノーステキサス大学、グレーター・デントン・アーツ Council、テキサス美術委員会の、およびデントン、フォートワース、ハースト・ユーレス・ベッドフォード、パイロット・ポイント、およびプラノの私立学校地区である。

NTIEVAは全国美術館/学校コラボレーション・センターを構想している。
その専門プログラムとして全国美術館/学校コラボレーション・センターを確立するために、NTIEVAは、ゲティー芸術教育センターから62,500ドルの補助金の助成を受けた。センターは、美術館、学校や大学の間の協力的なプログラミングに注目し、美術教育への包括的なアプローチにおける美術館の役割を明確にするために機能することになる。
 それはさらに、プログラムの成果や実践報告等の情報交換の場として役立つ。そして研究成果を集めて、情報のデータ・ベースを維持し、情報検索用の電子ネットワークや印刷ネットワークを作成することへ発展することが望まれるだろう。
 センターはさらに美術館と学校の教育者がともに参加する地方の会議および全国会議を組織し、美術館/学校コラボレーションを表題とする出版物のプログラムを開発する予定である。
 センターのリーダーシップを発揮するのは、NTIEVAの共同ディレクターであるジャック・デービス(D. Jack Davis)とウィリアム・マッカーター(R. William McCarter)であり、ノーステキサス大学の美術史と美術教育の准教授でありプログラム・ディレクターであるにナンシー・ベリー(Nancy Berry)である。
 美術史と美術教育を専攻し美術館教育の免許を学んでいるノーステキサス大学の大学院生は、研究助手およびインターンとして寄与する。彼らの役割は研究、開発およびネットワークと出版物による情報の普及に努めることである。

 1994年11月16から18日にかけて、ファシリテータのシャロン・ブルーム(Sharon Blume)が主導する形で、センターに関する国立諮問委員会のメンバーがデントンで会合した。達成度や目標および初年度に策定された研究開発活動を検証するためである。
 諮問委員会のメンバーはアメリア・アレナス( Amelia Arenas、ニューヨーク近代美術館)、
デイナ・ボールドウィン(Dana Baldwin、メイン州ポートランド美術館)、シュレーダー・チェリー(Schroeder Cherry、ボルティモア美術館)、アン・エルオマニ(Anne El-Omami、シンシナティ美術館)、スーザン・ヘーゼルス(Susan Hazelroth、リングリング美術館)、アリソン・パーキンス(Allison Perkins、アモン・カーター美術館)、キャサリーン・ウォルシュパイパー( Kathleen Walsh-Piper、国立美術館)、レイ・ウィリアムズ(Ray Williams、Ackland Art Museum、ノースカロライナ大学)。
 アレナスはこのようにして、全国美術館/学校コラボレーション・センターの構想、行動、検証にかかわる役割を果たしてきているのであり、日本における同様の構想が立ち上がった時の大きな示唆を提供してくれるものと思われる。

「美術による学び研究会」の主旨

近年、アメリカやイギリスの教育界ではeducationという言葉が影を潜め、learningという言葉が多用されてきています。これは学校教育の場に限ったことではなく、美術館など社会教育の場でも同様の現象だといわれています。同様にわが国でも、「学びの○○○」や「○○○な学び」のように、学び(learning)を視点とした教育論や授業改革が広まってきています。
教育(education)という言葉にまとわりついた「教師→学習者」という一方通行的な、知識伝授のイメージを払拭し、教育を学習者の視点から捉え直し再構築するという意味で、学び(learning)という言葉が流通しているのでしょう。
 学習者間の相互作用や共同性、体験や身体性からの育ち、一人ひとりの学びかたや個々に達成されたことなどを重視する学びという視点は、美術の教育においてこそ必要不可欠であると考えます。
 たとえば、相互性や共同性の具体的な表れである対話やしぐさに着目した授業分析、個々と集団における意味生成を充実させる鑑賞や表現のあり方、一人ひとりの育ちや変容の具体的な探究などが、学びという視点からの研究の焦点といえるでしょう。
1953年に翻訳刊行されたハーバート・リードの『美術(芸術)による教育』(“EDUCATION THROUGH ART”)は一つの時代を画しました。それから55年間、わが国の美術教育界ではその時の世相や社会の動向に敏感に応じながら様々な研究がなされてきました。
 それらに敬意を払いつつ、いま私たちはこの名著にな ぞらえ、
「美術による学び」LEARNING THROUGH ARTについて研究することを提唱します。

代表 上野 行一